▼社会文化科学研究科「『場所の感覚』の総合政策的検討」プロジェクト共催
「『場所の感覚』をめぐる連続セミナー」
【第3回】「『場所の感覚』と『環境と福祉の統合』」報告

 7月19日に第3回「場所の感覚」をめぐる連続セミナー(第20回公共政策セクション対話研究会)を開催しました。今回は「『場所の感覚』と『環境と福祉の統合』」というテーマで、慶應義塾大学経済学部の岸由二先生から「自然の住所――大地に住み場所を定めなおす(re-inhabiting the earth)あるいは都市の地球化(urban earthian living)」というご報告をいただき、千葉大学法経学部の広井良典先生にコメントをいただきました。当日は15名ほどの方が参加され、セミナーの最終回を飾るにふさわしいご報告に、熱心に耳を傾けられていました。
  岸先生には、今年の1月28日に本COEが共同開催したシンポジウム「風土論・環境倫理・公共性」の中でもご報告いただきました。前回は「自然との共存の主題化」というテーマで、生命多様性(biodiversity)概念の流行について、ランドスケープに対応する日常用語がないことの問題点と「流域」という言葉の暫定的使用について、住み場所感覚(sense of habitat)の重要性について、自然度(ecolacy)を涵養する必要性について述べられましたが、今回はそれらを「世代の緑地」の構想へと結びつけることで、「場所の感覚」について環境と福祉の両面からお話しいただきました。
  最初に岸先生は、"地球環境危機とは文明の危機であり、産業社会における人口の爆発的増大が地球の制約と衝突していることを自覚しなければならない"と主張されました。そして、"産業社会と人口増大の舞台は都市であるが、都市を否定すべきものではなく、むしろ都市に住むことはよいことである。そして、地球環境危機をのりこえるには、都市を変えること、都市文明を作り直すことが必要である"と述べられました。
  岸先生は、都市文明の最大の特徴を、「ランドスケープベースの暮らしの感覚の不在」としています。タイトル中の「住み場所を定めなおす」(re-inhabiting)という言葉はアメリカのbioregionalismという環境思想の基本概念です。岸先生は自らの主張を、それによく似たものとして「生態文化地域主義」と呼んでいますが、都市と文化に力点があるところに岸先生の独自性があります。特に岸先生は「流域」という単位で考えることを提唱し、ご報告の中でも、鶴見川流域市民、流域人という文化をつくらないといけない、と述べられています。
  同じくタイトルにある「都市の地球化」については、まず、「空間の地球化」として、ランドスケープで計画することを求められ、また「時間の地球化」として、1000年〜2000年で地形を変えないような計画をつくること、人のライフサイクルを丸ごと受けないような都市をやめることを訴えられました。それらによって、それが都市の地球化につながると述べられました。
  これに関連して、岸先生は、墓地を「世代の緑地」として運営することによって、死の問題を足元に密着させることで、都市を再生させるという構想を描いており、その実現のために活動されている様子が、具体的に語られました。
  ご報告のあと、コメンテータの広井先生が、「流域ベース」の視点に関して、"日本列島は川の国で、川は身近な自然のひとつだが、場所の感覚、自然の住所に占める流域の位置、および戦後多くの日本人が農村から都市に移った中での流域の意義はどのようなものか"という疑問を出されました。また、「世代の緑地」に関連して、岸先生は神社やお寺についてどのように考えているのかと問われました。それに対して岸先生は、流域や河川をノスタルジックに語るのではなく、むしろこれから、流域をベースにした環境地域文化を、新しく作るにはどうしたらよいか考えるべきだと主張されました。また、神社・仏閣には今なお期待しているが、お寺に対しては一般の期待が大きすぎるとも述べられました。
  岸先生は、ご報告の中で、この連続セミナーのキーワードである「場所の感覚」について、次のように述べられました。"sense of place"は「ロマンティックな場所の理論」にすぎない。そうではなく、進化生物学的な場所理論に基づく"sense of habitat"が重要なのだ。そして"sense of habitat"は、自分にとって安らぐ感覚や、小さいときに自分の暮らしている身の回りの空間と親しみたわむれて遊ぶことによって開かれるものだ。
  これを受ける形で、質疑応答では、司会の倉阪先生が、"sense of habitat"は今は失われているのか、それとも個々人はもっているが現れていないのか、と質問され、岸先生は、"sense of habitat"は全員が必ずもっているものだ、と答えられました。ただし、「それが、どのような形態で開かれ、積分的に形成されるかは、別問題」と注意を喚起されました。「sense of habitat は、sense of artificial habitatとして、あるいは、sense of natural habitat ――自然のランドスケープを強調すればsense of natural landscape-based habitat――として現れる。デカルト座標準拠型、直線、行政区分型の空間了解とセットのsense of habitatは、sense of artificial habitat、自然ランドスケープベースの空間了解とセットのsense of habitat は、sense of natural habitat」と整理されています。そのうえで、"sense of natural habitat"は、これから都市の暮らしの中で、従来型の人工的な空間了解に基づく"sense of artificial habitat"とは別の経路を介して、積極的に創出されてゆかなければならないものだ。ただし、都市計画などを自然共存型に転換させてゆくためには、"sense of natural habitat"をもつ人が千人にひとりくらいいれば何とかなるので、悲観はしていない、と答えられました。
  そのほか、議論を通じて、「地球環境問題を解決するには愛と科学が必要である」、「6年生で小学校と中学校と分けるをやめないといけない。12〜13歳は遊び仲間の中でリーダーになる年齢なのに、そこから切り離されて思春期集団の最底辺に行かされ、自尊心をつぶすことになる」、といった主張が飛び出すなど、議論は尽きることなく、活況のうちに、全3回のセミナーを締め括ることができました。

2006年7月19日 18:30〜20:00

千葉大学マルチメディア会議室(人文社会科学研究系総合研究棟2F)

(リサーチ・アシスタント 吉永明弘)

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